あいちトリエンナーレ2019 情の時代 AICHI TRIENNALE 2019: Taming Y/Our Passion [PART4]
もう一度、あいちトリエンナーレ2019に行きました。最初に訪れたときに行けなかったエリアと、作家の意向により観られなかったあるいは別の形で展示されていた作品を鑑賞するためです。もともと、会期終了前にもう一度観ようと思って計画を立てていましたが、直前に「表現の不自由展・その後」や他の展示の再開が実現したため、訪れる意味がぐっと大きくなりました。
名古屋の空は晴れときどき曇り。最初に足を運んだ名古屋市美術館では、Mónica Mayerの「The Clothesline」を観ました。性差別・セクハラ・性暴力に関する質問への回答が書かれた多くのカードが、洗濯ロープ(clothesline)に洗濯ばさみで留められています。先日は、何も書かれていないカードが、破り捨てられたように床に散乱していました。カードに刻み込まれた言葉は正しい位置に留められ、「声なき声」を鑑賞者に届けます。
美術館を取り囲むように設置されたいくつものゴミ箱。Barthélémy Toguoの「Africa: Trash Bag of the Western World(アフリカ:西欧のゴミ箱)」という作品です。アフリカの国々の国旗がプリントされたゴミ袋が取り付けられ、それらをたどっていくと、美術館をぐるりと一周します。前回来たときはまったく気に留めず、美術館のいつもの光景なのかなと思っていました。これもまた作品だと知ったときは、見ようとしなければ本当に見えないのだということを実感しました。この作品が投げかけているテーマとはまったく関係ありませんが、個人的には、とても衝撃を受けた体験です。
地下鉄を乗り継いで四間道・円頓寺地区に向かいます。どこに何があるのか分からないまま、半ば迷いながら道を進むと、目に飛び込んできたのは道路標識…らしきもの。葛宇路(Ge Yulu)による「葛宇路(GE YU LU)」です。葛宇路とはアーティストの名前ですが、この作品を北京の一角、正式名称がなかった道に立てたところ、通りの名前として認知されたという冗談のような話です。メディアに取り上げられた後、当局に撤去されて、今は正式な名称がつけられているそうな。
世の中の隙間を縫うような、誰も目を向けなかったところに光を当てる行為。商店街の片隅に静かにたたずんでいながら、目を引くエネルギーに満ちていました。東京に帰ってきて道を歩いていると、道路標識を目にするたびに「葛宇路」を思い出します。東京のどこかに存在する隙間に、「葛宇路」が立っているような、そんな気がしてなりません。
円頓寺本町商店街アーケードで昼食をとり、商店街オリジナルのてぬぐいを購入します。アーケードを歩くことも、そしてここで買い物をすることもまた、作品の一部です。Ayşe Erkmenによる「Living Coral / 16–1546」。アーケードにかかるロープの色は珊瑚色(PANTONE 16–1546)だそうで、PANTONE社が選んだ2019年のテーマカラーとのこと。紙袋も同じ珊瑚色で印刷されています。これを下げてアーケードを歩くことで、いつの間にか作品に組み込まれていました。
アーケードを抜けて、次にたどり着いたのは、大きな道路に面した小さな雑居ビルです。狭い部屋の中で、キュンチョメの「声枯れるまで」が上映されていました。テーマは名前。生まれたときに与えられた名前を、自らの意思で変えた人々が登場します。名前を変えた人々はインタビューに答え、生い立ちや名前を変えたかった理由、新たな名前を得てからの人生などについて語ります。そして、自らの名前をひたすらに叫びます。ひたすらに。
今回の最終地点も愛知芸術文化センターです。数日前に展示再開が発表された「表現の不自由展・その後」。鑑賞者は抽選とのことだったので、時間の都合により諦め、扉が開かれた入り口を確認してその場を後にしました。暴力によって封じられた口が再び言葉を発する。向こうにあるものは観られなかったけれども、扉が開いたという事実だけはこの目で見ました。それだけでも、もう一度訪れた価値があったと思います。
愛知芸術文化センターでは、Tania Brugueraの「43126」が強く印象に残りました。「表現の不自由展・その後」が展示中止に追い込まれた際に、ボイコットされた作品のひとつです。部屋に入る前、左手の甲にスタンプが捺されました。奥のドアをスライドして中に入ると、メントールのつんとした匂いが鼻を刺します。真っ白な壁と、郵便受けのような隙間、そして壁に刻み込まれたいくつかの数字。左手に残る “10150909” と、壁に刻まれた “10150909” が呼応します。息が詰まりそうな部屋の中で、数字の意味を考えようとしてもうまく頭が回りません。やがて涙が出てきます。
アートや芸術の役割とは何でしょうか。少なくとも、万人が納得するシンプルな説明は不可能です。得体の知れないものだからこそ、誰もが何とでもいえるし、「こんなものは芸術ではない」とすべてを否定することもできます。けれども、その作品が誰かの心を動かすものであれば、少なくともそれだけの意味はあったといえるのではないでしょうか。アートや芸術というカテゴリーに入れるかどうかは副次的なことであって、鑑賞者が何を思ったのかということが最も大事なことだと思います。
特定の人々は作品が芸術か否かはどうでもよくて、他の目的があってあいちトリエンナーレ2019を潰そうとしていたのは想像に難くない。そういう悪意が渦巻く中でこそ、「人々に問いかけ続けるもの」が世の中に存在することの意味を自分の言葉で肯定したいと思います。今回であれば「アートや芸術」だったものが、例えば「音楽」や「小説」に置き換わる場面が来るかもしれません。「人々に問いかけ続けるもの」が存在する意味は、少なくとも自分から手放すべきではないと思うんですよね。