京極夏彦『鵼の碑』:読者を呑み込む言葉の奔流、誘う先は「不思議なものなど何もない」世界
謎に翻弄された登場人物たちを、そして数多の読者を誘うのは、京極堂がいうところの「不思議なものなど何もない」世界。2023年9月に京極夏彦の小説『鵼の碑』が刊行されました。百鬼夜行シリーズとしては前作から17年。文字どおり待望の新作です。
冒頭で引用された『古事記』の一節や『平家物語』の「鵼」が物語の起点です。いくつかのパートが並行して進み、各々の線は複雑な軌跡を描いて伸び、少しずつ交差します。やがて一点で結ばれることは予測できますが、どのように収斂するのかは最後まで分かりません。膨大な言葉が積み上がると、自分の拙い憶測など矮小なものに思えてきます。あとはもう、ただひたすらページを繰る、ひたすら言葉を追う時間が流れる。これぞ百鬼夜行シリーズの醍醐味です。読めば読むほど、考えれば考えるほど、言葉に絡め取られ支配される。
京極堂こと中禅寺秋彦の見せ場は終盤の語りですが、序盤であっても京極堂が語り始めたときはシリーズが再開したという実感が湧きました。とはいえ彼の語りだけで充分かというとそうではありません。周囲の人々の雑多な思考や言葉が絡み合ってこそ、京極堂が連ねる言葉の明晰さが際立ちます。言葉に敏感であればそれだけ京極夏彦の小説は深く楽しめるし、だからこそ綺麗に罠に嵌る。
百鬼夜行シリーズの魅力はユニークな人物描写にあります。京極堂をはじめとしたレギュラー出演者はキャラクターが固まっていますが、新しく話に関わる人々がどのようにデザインされるのかが注目すべき点です。馴染みの連中とゲストが経糸と緯糸となります。登場人物たちが考え、動き、集まって織り上げるのは謎の解明というカタルシスなのか、それとも別の何かなのか。答えはページを捲り続けた先に待っています。
語り手の入れ替わりが比較的多いのが『鵼の碑』の特徴です。語りの八割ほどをゲストたちが担い、残りはレギュラーのひとりが引き受けます。よく知る人物の視点は読者に安心感の一方でミスリードを与える。新しい人物の語りは予測不能の不安がつきまといながら、百鬼夜行シリーズの小説世界を別の角度から照らす。両者の交錯が物語を立体的にします。
そうした語り手のひとりとして、京極堂たちの旧友である緑川佳乃が登場しました。おそらく初登場だと思いますが(前作までに名前だけでも登場したのかは不明)、緑川は『鵼の碑』の世界――あるいは鵼そのものというべきか――を構成するうえで欠かせない役割を果たします。関口巽、榎木津礼二郎、木場修太郎などの面々とは違った種類の人物です。緑川の「自分の目の高さ」で見る思考や語り口は、どこか陰鬱で寒々しい空気が漂う物語に清涼感や心地よさを与えました。