アイナ・イエロフ『NYの「食べる」を支える人々』:食べることを支える人々が語ること、思い出すもの
アイナ・イエロフ(Ina Yalof) という調査報道ジャーナリストでありノンフィクション作家の著書『NYの「食べる」を支える人々』(訳:石原薫、原題:FOOD and the CITY: New York’s Professional Chefs, Restaurateurs, Line Cooks, Street Vendors, and Purveyors Talk About What They Do and Why They Do It.)には、食に関する仕事に就くニューヨーカーの声が多く集められています。レストランのシェフやウェイター、魚捌きのプロやパン職人、ダックファームやピッツェリアの経営者、ケータリングのシェフや刑務官、消防士など、多彩な職種の人々が登場します。それぞれの現在や過去について言葉を連ね、「何をしてきたのか(What They Do)」と、それを「なぜしてきたのか(Why They Do It)」を語ります。
本書に登場する人々の言葉は、素材の良さを活かした料理のようです。とりわけ印象に残ったのは「ウェイター兼彫刻家」と称する男性です。ウェイターはレストランにおける接客のプロフェッショナルですが、彼は「給仕は屈従的である」ということを認識して折り合いをつけなければならないと語ります。
彼が考える「ウェイターの醍醐味」とは何か。それは、価値あるものを客に与えていることが実感できたり、客に喜んでもらえる気持ちよさがあったりすることだ、とのことです。しかし、奉仕という点を忘れて自らの威厳に固執すべきではないと加えます。「仕事に自信を持つことと仕事の本質を捉えることは等しく重要」ということでしょうか。
給仕は、屈従的な行為だから、そのことを認識して折り合いをつける必要がある。うまく給仕できたときには、相手が二度と受けとることのできないものを、自分が与えているという実感が得られて自尊心も満足する。人に喜ばれるのは気持ちがいいもので、それがこの仕事の醍醐味だ。でも、その奉仕の部分をクリアしないで、自分の威厳にこだわっていると、ほんとうに破滅的な影響を及ぼしかねないですよと。
デイヴィッド・マックイーン
ウェイターの話に興味を持ったのは、オノ・ナツメの『リストランテ・パラディーゾ』と『ジェンテ ~リストランテの人々~』を読んでいたからだと思います。リストランテを舞台にしたこの漫画では、男性給仕人(カメリエーレ)が重要な役割を果たします。主役ともいえるそのカメリエーレの回想において、彼は「なぜこの仕事を選んだのか」という問いを受けます。
彼は「美味しい食事を楽しもうと待つテーブルに料理を運ぶのは素敵なことのように思えて」と語りました。「料理を運ぶ」という行為に運搬以上の役割を想像していなかった僕にとって、その言葉は新鮮であり、とても印象的でした。しばらくして『NYの「食べる」を支える人々』を読んだとき、このインタビューにおける言葉と『リストランテ・パラディーゾ』の世界が重なりました。まるで目の前に料理が並ぶかのように、言葉がシンプルに自分の中に満ちていきます。
「どんなレストランでも、サービスと料理は互いを救い合う」と言われています。どちらかがすばらしかったら、どちらかが今ひとつでも、お客様はまた来るという意味ですが、僕は料理とサービスだけの問題じゃないと思います。レストランには、雰囲気が必要なんです。それと活気も。活気は、僕に言わせれば、4つの中で一番なくてはならない要素で、それはいいスタッフを揃えることでしか得られません。
デイヴィッド・マックイーン
他にも多くのプロフェッショナルのプロフェッショナルな言葉に触れて、感銘を受けたり驚いたり、自らの至らなさを痛感したりしました。こうした人々の考えや過去をわずかなりとも知ることで思ったのは、「自分で選ぼうが流れに身を任せようが、落ち着くところに落ち着く定めがある」ということです。人生における選択とは、王道だろうが邪道だろうが、結果として大きな違いはないのかもしれません。
同時に、本書に登場する人々の現在が充実しているのは、苦労した経験が隠し味の役割を果たしているからだろうとも思います。その苦労も千差万別です。同じ苦労を別の人が経験する必要はなくて、苦労話はその人を綴る物語の一部でしょう。隠し味というには強烈すぎる体験(ナチスからの逃亡など)をしている人もいますが、苦労の軽重も含めて「落ち着くところに落ち着く」のだと思います。苦労することが大事というよりは、「生き方は人の数だけバリエーションがある」ことを改めて思わせてくれたインタビュー集です。